1979年(昭和54年)のこの日、日本電気(NEC)がパーソナルコンピュータPC-8001(PC-8000シリーズ)を発売した。
キーボードと本体が一体化したデザインで、サイズは430(W)×260(D)×80(H)mm、重量は4kg、定価は168,000円だった。これがパソコンブームの火付け役となり、PC-8000シリーズは3年間ほどで約25万台を売り上げた。同社を代表するシリーズの一つで、数多くのソフトウェアや周辺機器が販売された。また、販売は日本だけでなく外国でも行われた。その後、PC-8800、PC-9800シリーズが発売された。
「PC」は「パーソナルコンピュータ」の略である。日本で「パーソナルコンピュータ」という言葉が使われたのも、このPC-8001が最初である。当時は「マイクロコンピュータ」の略称である「マイコン」がこれらのコンピュータの通称となっていたが、NECは以降「パーソナルコンピュータ」、略称「パソコン」を商標に据え一般に定着させていった。
この日は「パソコン記念日」または「パソコンの日」とされるが、NECの公式な見解ではPC-8001の発売日は「9月」のみとなっている。
10月29日はインターネットの元型であるARPAネットで初めての通信が行われたことに由来して、「インターネット誕生日」となっている。
PC-8001
PC-8001は日本で1979年5月9日に発表され、9月20日に出荷が開始された。9月28日がパソコン記念日/パソコンの日としてこの機種の発売日を根拠とした日付として語られることが多いが、記念日の名称すら表記ゆれがあり、NECの公式な見解は「9月」のみとなっている。希望小売価格は168,000円で、1983年1月の販売終了まで一度も改定されなかった。
日本では輸入品を除けば半完成品(セミキット)がほとんどであった当時のマイコンの中で、本格的な完成品として登場し、ハード・ソフトとも高い機能と完成度を有した。PC-8001は「パーソナルコンピュータ (Personal Computer)」を商標に据えて宣伝し、1980年代初めにはNECのPCシリーズ展開を先導した日本のパソコンの代表的機種となった。
1981年8月にはアメリカ合衆国で「PC-8001A」が1,295ドル(32K RAMシステム)で発売された。FCCが規制する電波障害の対策を施し、カナ文字の代わりにギリシャ文字を表示できるようになっていた。同年10月には西ドイツに日本電気ホームエレクトロニクスの支社が設立され、PC-8001が発売された。
機能
キーボードと本体が一体化され、最低限必要であるプリンタ、コンパクトカセット(データレコーダ)、CRTインタフェースを備える。ただし拡張スロットはなく、FDD等その他機器の増設には別売の増設ボックスPC-8011、PC-8012が必要である。
発売当初は搭載メモリ16Kモデルのみの販売であった。さらに16Kの増設が可能で、増設して購入するユーザが大半であったため、32Kモデルも後に販売された。なお、拡張ボックスの使用により64Kに拡張してFDDを増設すれば、CP/Mなどの汎用OSを動作させることも可能である。
グラフィックも発売当時は160×100ドットで十分高い画面解像度であった。しかし、後発の機種が640×200ドットのフルグラフィックを搭載してくると見劣りするようになり、NEC以外から発売された高解像度アダプタ(FGU8200)やユーザ定義キャラクタジェネレータ(PCG8100)等のグラフィック機能拡張の周辺機器を増設することで対処した。
開発
1978年夏頃、日本電気電子デバイス販売事業部マイクロコンピュータ販売部長の渡辺和也と設計主担当の後藤富雄を筆頭とする10人のチームで、PC-8001の開発が始められた。NEC社内での開発コードは「PCX-1」であった。
当時、日本のメーカーでは既に日立製作所がベーシックマスターを、シャープがMZ-80Kをパソコンとして発売していたが、どちらもアマチュア向けを意識したもので、本格的なものではなかった。ボードコンピュータのTK-80BSを筐体に組み込んでパソコンの形態にした製品は、以前から計画されていた。これは1978年10月にCOMPO BS/80として発表されたが、搭載されたプログラミング言語のBASICが機能・性能ともに貧弱であったため成功しなかった。PC-8001は業務にも使いたいという要望に応えて、高性能かつ安価な個人用コンピュータを目標として開発された。
本体は元々COMPO BS/80と同系色のデザインと旧JIS配列のキーボードで考えられていたが、石田晴久の助言によりミニコンの端末としても通用するシックなデザインとテレタイプ仕様のキーボードレイアウトとなった。プログラミング言語のBASICは、マイクロソフトが作成したものとNECが社内で作成したものの2種類のバージョンが開発されていたが、既に北米のパソコン市場でデファクトスタンダードの地位を確立していたマイクロソフトのBASICが採用された。
マイクロソフトは日本企業への本格的なOEM進出を狙っていたタイミングであったため、NECには非常に安い価格でBASICが提供されたという。
本体、ディスプレイ、外部記憶装置は日本電気が開発して1980年1月からは新日本電気が生産していたが、プリンターは日本電気にはメインフレーム用の高価なものしかなく、東京電気からOEMで調達された
大内淳義(当時、日本電気専務取締役)は販売部が立ち上がった時点から渡辺に行動の一切を委ね、非公式の会議で連絡を取っていた。マイクロプロセッサの拡販が本来の業務である部隊がマニアを相手に商売を広げ、さらにパソコンの開発を進めていることに、社内からは批判の声があがっていた。TK-80BSまではマイクロプロセッサを拡販するためのキットという口実が通った。しかし、PC-8001は完全なコンピュータであるため、商品が失敗すればNECの本業であるコンピュータ事業や企業イメージに悪影響を及ぼす恐れがある。大内はPC-8001の発売に際しては待ったを掛けた。先行するメーカーのパソコンがそれほど売れていないことや、TK-80BSとCOMPO BS/80の失敗もあって、大内は市場に需要を見いだせずPC-8001の商品化に躊躇していた。結局、開発部隊が成功するという絶対的な自信を持っている様子を見て、大内は動くことにした。まずはキットの技術サポートのために開設していた主要都市のBit-INNでテスト販売し、反応が良ければ徐々に販売ルートを増やしていくことになった。
評価
パソコン雑誌『ASCII』(1979年11月号)は発売直後のレビュー記事にて「若干の問題は残しているもののソフトウェア、ハードウェア共に現在考えられる最強のマシンと折り紙を付けることができるだろう。」と総評した。外観はコンパクトで好ましいカラーであると評価した。キーボードは5個のファンクションキーで10種のコマンドを定義できることを挙げて「他に類を見ない」と賞賛した一方、Escキーにリピート機能を付けるべきでない、キートップにグラフィック記号の表示がないことなどを憾んだ。シリアルインタフェースでRS-232C規格の機器と接続するには、レベル変換のために別売のケーブルユニット (PC-8062) を挟む必要があることに対して、基板上に数個の部品を追加するだけでよりスマートに実装できたはずと不満を挙げた。電源の保護機能、電圧変動、過負荷特性は「非常に優秀」と評価した。環境試験では摂氏0度の恒温槽にPC-8001本体を2時間置き、ゲームプログラムを1時間以上動作させた後、恒温槽を60度まで上げる耐久テストを行った。CPU上面の温度は78度まで達したが異常は見られず、「常識をはるかに超えた使用状況下で安定した動作を続けたのには、測定にあたっていたラボスタッフも驚嘆した。」とコメントした。N-BASICについては「現在のBASICではトップレベルにある」と評価しながらも、いくつかのバグやスクリーンエディタ・モニタの機能不足を指摘した。
PC-8001は1979年5月のマイクロコンピュータ・ショウでの発表直後に数千台のバックオーダーを抱え、9月の出荷開始から1万台近くの受注残を消化するまでに半年以上を要した。1981年には日本のパソコンシェアの40%余りを獲得し、1983年1月の販売終了までに累計25万台を出荷した。NECのパソコン販売網であるNECマイコンショップは、1979年の時点で7店舗であったのが、1980年に15店舗、1981年中に100店舗を超え、1983年には200店舗を超えた。
PC-8001発売当時はパソコン自体が一般に浸透しておらず、NECの電子部品販売部門がパソコンを開発していたことはNEC社内でもあまり知られていなかった。しかし、1980年12月、PC-8001の存在を知った小林宏治(当時、日本電気会長)の発案で300人余りの幹部を対象にPC-8001を使った社内研修を実施。マイクロコンピュータ販売部は1980年6月にマイクロコンピュータ応用事業部へ改組され、1981年4月にパーソナルコンピュータ事業部として独立してようやく事業活動が社内で公認された。
PC-8001がマイクロソフトのBASICを採用して「標準仕様」を宣伝したことは、教育現場への採用を促した。1981年、神奈川県立茅ヶ崎西浜高等学校が17台のPC-8001を導入し、普通科高校で初めて選択科目として情報教育を始めた。1982年4月に放送が始まったNHK教育テレビの趣味講座「マイコン入門」ではPC-8001が教材に採用されたが、商品名を出すことができないため、銘板を隠され「機種X」と呼ばれていた。番組用テキストの『マイコン入門 昭和57年度 前期』(日本放送出版協会、1982年)は70万部が発行される大ヒットとなった。
PC-8001のヒットについて、沢登盛親(当時、日本電気電子デバイス販売事業部長)は後年に次のようにコメントした。最大の要因は168,000円という価格の設定であった。商品力から言えば22から23万円の線が妥当というのが多数意見であったが、担当の渡辺和也マイコン販売部長(当時)は断乎として168,000円を譲ろうとしなかった。結局大内専務(当時)の裁定で渡辺案に決まったのだが、あのときの彼の頑固さは見上げたものだった。
他にPC-8001発売時の爆発的ヒットの要因としては、コストパフォーマンスが優良であったこと、発売のタイミングがよかったこと、NECマイコンクラブによるPRの徹底、マイコンやデバイスのNECへの信用、Bit-INNやマイコンショップなど販売サービス網が先行していたこと、デザインが良かったことが挙がった。
PC-8001をモニターに接続してみる 古いパソコンは意外と大変だった
レトロPC NEC PC-8001の紹介
古いPC NEC PC-8001 N-BASIC cload PART1