1927年(昭和2年)のこの日、アメリカのチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh、1902~1974年)がパリに到着し、大西洋無着陸横断飛行に成功した。
前日20日の午前7時52分、「スピリット・オブ・セントルイス号」と名付けられた飛行機でニューヨークを出発した。非常用パラシュートはなく、食料はサンドイッチ4個と水1リットルのみで、睡魔と寒さと戦いながらの命がけの飛行であった。
21日の午後、「翼よ、あれがパリの灯だ」という有名な言葉とともにパリ近郊のル・ブールジェ空港に到着した。空港は英雄をひと目見ようと10万人の群衆が集まった。そのため、リンドバーグの最初の言葉は「誰か英語を話せる人いませんか?」だったという説もある。飛行距離は約5800km、飛行時間は33時間30分。25歳の無名の青年の快挙であった。後にこれをモデルに、映画『翼よ!あれが巴里の灯だ』が作成され、1957年(昭和32年)に公開された。
大西洋単独無着陸飛行
1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)にサンドイッチ4つと水筒2本分の水、1700リットルのガソリンを積んでニューヨーク・ロングアイランドのぬかるんだルーズベルト飛行場の滑走路を離陸。
途中、海面近くまで降りアイルランドの海岸までの距離を聞こうと漁船に向かって叫んだが上手くいかなかった。5月21日22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。この時、リンドバーグは25歳であった。
飛行距離は5,810kmで飛行時間は33時間29分30秒だった。これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。無着陸飛行を達成した際にル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれている。
スピリットオブセントルイス号は、リンドバーグの指示の下に特別にカスタマイズされた機体であった。多量の燃料(ガソリン)を積むべく操縦席の前方に燃料タンクを設置したため、座席からは直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要があった。当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったため、他のオルティーグ賞挑戦者のように大型の機材を用意できず、また機材そのものもリンドバーグが望んだベランカ社製品より性能の低いものにせざるを得なかったことから、前方視界を犠牲にして燃料の搭載量を増やすことで対処したのである。
さらにバックアップの操縦士を乗せることもできなかったため、パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行となった。飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われたが、これを克服してパリに到達した。現在、この機体はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。
「リンドバーグが大西洋無着陸飛行に初めて成功した」と誤解されがちだが、単独でない大西洋無着陸飛行については、1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが達成している。これは、6月14日から6月15日にかけての16時間でニューファンドランド島からアイルランドへ1,890kmを飛行したものであった(その他の大西洋横断飛行については「大西洋横断飛行」を参照)。また、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、この台詞は後世の脚色であり、リンドバーグはその時自分がパリに着いたことも分らなかったという。実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」の出所は自伝 “The Spirit of St. Louis“の和訳題であり、日本語では広く知られているが、英語圏ではこれに対応するよく知られた台詞は存在しない。
リンドバーグ夫妻の北太平洋航路調査と来日
リンドバーグ夫妻は1931年に、パンアメリカン航空から依頼された北太平洋航路調査のためニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て、日本と中華民国までロッキードの水上機シリウス「チンミサトーク号(チンミサトークはイヌイットの言葉で『大鳥』の意)」で飛行した。
途中8月23日には日本の国後島、根室、26日に霞ヶ浦、その後9月13日大阪、9月17日福岡を経て、中華民国の南京と漢口まで飛行した。妻のアン・モローは、飛行記録として『 NORTH TO THE ORIENT 』を著した。
【TBSスパークル】1927年5月21日 リンドバーグ大西洋横断飛行成功