1946(昭和21)年5月3日GHQが日本の戦争犯罪人と指定した指導者たちを裁いた極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)が開廷した。
極東国際軍事裁判
極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、英語: The International Military Tribunal for the Far East)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のようなもののことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。
裁判
この裁判は、連合国によって東京市ヶ谷に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて 行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。
被告人
「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、「通常の戦争犯罪行為」で有罪になった被告人は7名、「人道に対する罪」で有罪となった被告人はいない。
裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。
日本政府・国会
なお、日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこの「the judgments 」を受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している。
開廷
1946年5月3日午前11時20分、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂において裁判が開廷した。27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。ウィリアム・F・ウェッブ裁判長判事席
連合国のうち、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、ソ連の7か国と、イギリス連邦内の自治領であったオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そして当時独立のためのプロセスが進行中だったインド とフィリピンが判事を派遣した。
同日午後、大川周明被告が前に座っている東条英機の頭をたたき、翌日に病院に移送された。
罪状認否
1946年5月6日、大川をのぞく被告全員が無罪を主張した。この罪状認否手続きは、儀礼的なものであって無罪を主張するのは普通のことだが、毎日新聞記者はラジオで「傲然たる態度」と罵倒し、読売新聞記者も同様の罵倒をした。
なお、罪状認否手続きは欧米法における手続きであり、裁判官の「有罪か無罪か(Guilty or Not Guilty)」の問に対して、被告が「無罪(Not Guilty)」と答えることにより、事件の事実に関する審判(事実審)をし、「有罪(Guilty)」と答えると、検察側の主張を認め、量刑のみを行う(法律審)と言う法廷慣習である。東京裁判でこの慣習が厳密に適用されるものではないが、目的の一つである事実の開示の観点から事実審は必須であり、被告の無罪の主張が必要であった。城山三郎『落日燃ゆ』において、開廷前に広田弘毅が「無罪とは言えない」と抵抗するのを弁護士団が説得するエピソードが語られている。
弁護側の管轄権忌避動議
1946年5月13日、清瀬一郎弁護人は管轄権の忌避動議で、ポツダム宣言時点で知られていた戦争犯罪は交戦法違反のみで、それ以後に作成された平和に対する罪、人道に対する罪、殺人罪の管轄権がこの裁判所にはないと論じた。
この管轄権問題は、判事団を悩ませ、1946年5月17日の公判でウェッブ裁判長は「理由は将来に宣告します」と述べて理由を説明することになしにこの裁判所に管轄権はあると宣言した。
しかしその後1946年6月から夏にかけてウェッブ裁判長は平和に対する罪に対し判事団は慎重に対処すべきで、「戦間期の戦争違法化をもって戦争を国際法上の犯罪とするのは不可能だから、極東裁判所は降伏文書調印の時点で存在した戦争犯罪だけを管轄すべきだ。もし条約の根拠なしに被告を有罪にすれば、裁判所は司法殺人者として世界の非難を浴びてしまう。憲章が国際法に変更を加えているとすれば、その新しい部分を無視するのが判事の義務だ」と問題提起をしたという。日暮吉延はこのウェッブ裁判長の発言は裁判所の威厳保持のためであったとしたうえで、パル判決によく似ていたと指摘している。
補足動議
1946年5月14日午前、ジョージ・A・ファーネス弁護人が裁判の公平を期すためには中立国の判事の起用が必要であるとのべた。またベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、戦争には国際法があり合法である、戦争は国家の行為であって個人の行為ではないため個人の責任を裁くのは間違っている、戦争が合法である以上戦争での殺人は合法であり、戦争法規違反を裁けるのは軍事裁判所だけであるが、東京法廷は軍事裁判所ではないとのべ、さらに戦争が合法的殺人の例としてアメリカの原爆投下を例に、原爆投下を立案した参謀総長も殺人罪を意識していなかったではないか、とも述べた。
翌日の5月15日の朝日新聞は「原子爆弾による広島の殺傷は殺人罪にならないのかー東京裁判の起訴状には平和に対する罪と、人道に対する罪があげられている。真珠湾攻撃によって、キツド提督はじめ米軍を殺したことが殺人罪ならば原子爆弾の殺人は如何ー東京裁判第五日、米人ブレークニイ弁護人は弁護団動議の説明の中でこのことを説明した」と報道した。また全米法律家協会もブレイクニー発言を機関紙に全文掲載した。
判決言い渡し
1948年(昭和23年)7月27日、書記局は同年8月3日から判決文の翻訳を始めることを発表した。翻訳者は希望者の中から選抜されたアメリカ陸軍軍属9人、日本人26人からなり、翻訳作業は鉄条網が張り巡らされた服部ハウス(旧服部金太郎邸)で行われた。翻訳者は秘密保持のため判決文が読了されるまで缶詰め状態となった。
同年11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・ウェブは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された大川周明1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。
刑の執行
人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より巣鴨拘置所で行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった明仁親王(現在の上皇)の15歳の誕生日であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書 で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。
その後、7人の遺体は横浜市の久保山斎場で米軍によって秘密裏に火葬されたが、遺灰の一部を米軍から回収した三文字正平弁護士らにより、静岡県熱海市の興亜観音に持ち込まれ一時安置の後、1960年に愛知県幡豆町(現:西尾市)にある三ヶ根山の殉国七士廟に祀られた。
未訴追者への裁判と裁判終了
一方で戦犯容疑者に指定されたものの、訴追が開始されていない者達が未だ残っていた。1948年1月、ニュージーランドは1948年12月31日の時点で戦犯捜査を打ち切るよう主張し、アメリカ側もこれ以上の戦犯裁判継続はほとんど意味がないという見解を示していた。ニュージーランドとアメリカは捜査終了後の1949年6月30日をもって裁判を終了させるべきであるという見解を統一し、首席検察官のキーナンもこれ以上の戦犯裁判は行うべきではないという見解を示した。7月29日の極東委員会でニュージーランド代表は1949年6月30日に裁判を終了させるべきと提議した。賛成したのはアメリカとイギリスだけであり、その他の国は明確に反対しなかったが、BC級戦犯の裁判については継続を求める声が上がった。この協議中の11月12日に判決が出、極東国際軍事裁判は継続されているのかどうかという法的問題が持ち上がった。
1949年2月18日、極東委員会第五小委員会においてアメリカ代表は、「A級戦犯」裁判は2月4日の時点で終了し、新たな戦犯の逮捕は検討されていないという見解を示した。3月31日の極東委員会において、可能であれば捜査の最終期限を1949年6月30日とし、裁判は9月30日までに終了するという決議が採択された。
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