1917年(大正6年)のこの日、京都・三条大橋から東京・上野不忍池までの23区間の約508kmを3日間かけて走る東海道五十三次駅伝競走(東海道駅伝徒歩競走)が行われた。
最初の駅伝は、江戸が東京と改称され、都と定められた東京奠都の50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿の発案で同社が主催したものであった。この駅伝競走のスタートとゴールである三条大橋および上野不忍池の近くには「駅伝発祥の地」の碑がそれぞれ置かれている。国際陸上競技連盟では、駅伝の国際名称を「Road relay」としているが、日本が発祥であることから、そのまま「Ekiden」という名前が世界で使用されることもある。
「駅伝」の名前は、東海道五十三次の「駅」にちなんで名付けられた。「駅」とは首都と地方の間の道路網に30里(約16km)毎に置かれた中継所のことをいい、ここに宿泊施設や人、馬を配置していた。駅に朝廷の使者など身分の高い人が到着すると、次の駅まで乗り継ぎの馬を用意する仕組みが整っており、この制度を「駅制と伝馬制」あるいは「駅伝貢進」といった。
駅伝の歴史
競技としての最初の駅伝は、東京奠都50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿の発案で同社が主催し 1917年4月27日に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる。関西組と関東組に分かれ京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池(しのばずのいけ)までの23区間、約508kmを昼夜問わず走り抜けるもので、先着の関東組がゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分であった。この時の関東組のアンカーは金栗四三である。三条大橋と不忍池のほとりにはそれぞれ「駅伝発祥の地」の碑が現存する。
「東海道駅伝徒歩競走」の開催にあたり、当時の大日本体育協会副会長および神宮皇學館館長・武田千代三郎が競技名を「駅伝」と名づけた。当時江戸時代における東海道五十三次における伝馬制からヒントを得たと言われている。駅伝という言葉自体は、日本書紀にも記載されているほど古いものである。首都と地方の間の道路網に30里(約16km)毎に置かれた中継所のことを「駅」といい、ここに宿泊施設や人、馬を配置していた。駅に朝廷の使者が到着すると、次の駅まで乗り継ぎの馬を用意する仕組みが整っており、この制度を「駅制と伝馬制」あるいは「駅伝貢進」といった。
中央大学スポーツアルバム第一集(1951)〔第27回箱根駅伝〕