明治・大正・昭和にわたる小説家・永井荷風(ながい かふう)の1959年(昭和34年)の忌日。この日には東京都荒川区南千住の浄閑寺において法要が行われる。また、同寺には荷風の筆塚がある。
永井荷風について
1879年(明治12年)12月3日、現在の東京都文京区春日に生まれる。父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリート官吏で、内務省衛生局に勤務していた。母・恒は、父・久一郎の師でもあった儒者・鷲津毅堂の次女。
荷風の本名は壮吉(そうきち)。別号は金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭主人(だんちょうていしゅじん)など。官立高等商業学校(現:一橋大学)附属外国語学校(現:東京外国語大学)清語科を中退。
広津柳浪に師事。フランスの小説家エミール・ゾラの影響を受けて、1902年(明治35年)に『地獄の花』を発表。森鴎外に絶賛され、出世作となる。
アメリカ、フランスに外遊、帰国後に『あめりか物語』(1908年)、『ふらんす物語』(1909年)、『すみた川』(1911年)などを執筆。耽美派の中心的存在となる。
1910年(明治43年)に森鴎外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となり、雑誌『三田文学』を創刊。『腕くらべ』(1918年)などで花柳界の風俗を描く。1952年(昭和27年)、文化勲章を受章。1954年、日本芸術院会員に選出される。
1926年(47歳)頃から、銀座のカフェーに出入りする。荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り、1931年『つゆのあとさき』、1934年『ひかげの花』など新境地の作品を作り出す。この頃に各出版社から荷風の全集本が発売されたことにより多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。旺盛な執筆の傍ら寸暇を惜しんで、友人の神代帚葉らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街を歩む。そんな成果が実り、1937年、『濹東綺譚』を朝日新聞に連載した。随筆では、下町の散策を主題とした『深川の散歩』『寺じまの記』『放水路』などの佳作を発表した。
浅草の軽演劇やレビューにも進んで見学し、踊り子や劇場関係者と親交を結んだが、特筆すべきは、1938年(昭和13年)に銀座で知った作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演したことである。日本人の創作による本格的な歌劇上演の試みとして話題を集め、成功に気をよくした荷風は『葛飾情話』の映画化や第二作『浅草交響楽』の案も練っていたが、時局の悪化で中止の止むなきとなった。このときのアルト永井智子が菅原と結婚し、以後荷風と夫婦ぐるみの付き合いになった。
孤老の晩年とその死
1959年4月30日朝、自宅で遺体で見付かった。通いの手伝い婦が血を吐いて倒れているのを見つけ、最後の食事は大黒屋のかつ丼で血の中に飯粒が混ざっていた。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。傍らに置かれたボストンバッグには常に持ち歩いた土地の権利証、預金通帳、文化勲章など全財産があった。中身の通帳の額面は総額2334万円を超えており、他に現金31万円余が入れられていた。
雑司ヶ谷霊園1種1号7側3番の、父久一郎が設けた墓域に葬られた。なお、故人は吉原の遊女の投込み寺、荒川区南千住二丁目の浄閑寺を好んで訪れ、そこに葬られたいと記していた。宮尾しげをと住職とが発議し、森於菟・野田宇太郎・小田嶽夫らが実行委員となり、計42人の発起人によって、1963年(昭和38年)5月18日、遊女らの「新吉原総霊塔」と向かい合わせに、谷口吉郎設計の詩碑と筆塚が建立された。
永井荷風 肉声 昭和28年1月
【全文朗読】永井荷風「墨東綺譚」 隅田川東岸の遊女と老作家の一夏の恋の結末は?