1955年(昭和30年)の5月25日、岩波書店の国語辞典『広辞苑』(こうじえん)の初版が発行された。
『広辞苑』は、1935年(昭和10年)に博文館より発行された『辞苑』(じえん)を改訂したものであった。1945年(昭和20年)の東京大空襲により、印刷所と倉庫が被災し、数千ページ分の活字組版と大量の印刷用紙が焼失するという出来事もあり、改訂作業に20年もの期間と多大な労力が費やされた。編著者をはじめとする関係者の労苦が実り、書名を『広辞苑』と改めて出版された。
『広辞苑』初版の収録語数は約20万語、定価は2000円であった。この当時、公務員の初任給8700円、喫茶店のコーヒーは1杯50円であり、『広辞苑』はとても高額なものであったが、印刷が間に合わないほど売れ、大ベストセラーとなった。
『広辞苑』の編著者は、言語学者・文献学者である新村出(しんむら いずる、1876~1967年)と、新村出の次男でフランス文学者・言語学者である新村猛(しんむら たけし、1905~1992年)とされる。2018年(平成30年)1月12日に『広辞苑』第七版が発行された。収録語数は約25万語、定価は税込で普通版が9720円、机上版が15120円となっている。
『辞苑』誕生
『広辞苑』の出発点となる素案は、大正末期から昭和初年にかけ、民族・民俗学や考古学の名著を多数世に送り出した岡書院店主の岡茂雄による。1930年(昭和5年)末、不況下の出版業が取るべき方策を盟友岩波茂雄に相談の折、「教科書とか、辞書とか、講座物に力を注ぐべし」との助言を得て、中・高生から家庭向きの国語辞典の刊行を思い立ち、旧知の新村出に依頼したのが発端となる。当初、新村は興味がないと断るも、岡の重ねての依頼にしぶしぶ引き受ける。その際、新村の教え子の溝江八男太に助力を請い、その溝江の進言により百科的内容の事典を目指すこととなる。書名は、岡が新村のために企画した、長野県松本市での「国語講習会」での懇談の席上、新村考案の数案の中から決められた。「辞苑」とは、東晋の葛洪の『字苑』にちなんだもの。
しかし編集が進むに連れ、零細な岡書院の手に余ると判断した岡茂雄は、大手出版社へ引継ぎを打診。岩波茂雄には断られるも、岡の友人渋沢敬三を通して事情を知った博文館社長大橋新太郎より強い移譲の申し入れがあり、『辞苑』は博文館へ移譲された。『辞苑』移譲後も、編集助手の人事や編集業務上の庶務、博文館との交渉等の一切は岡茂雄が担当し、新村出を中心とする編集スタッフを補佐した。1935年(昭和10年)に『辞苑』は完成。刊行されるやベストセラーとなる。